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zoom RSS テーマ「旅と歴史」のブログ記事

みんなの「旅と歴史」ブログ

タイトル 日 時
多武峰の紅葉
多武峰の紅葉 <大化改新と多武峰> ◇多武峰への道、早朝 ...続きを見る

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2014/09/29 17:18
大和郡山城跡を歩く
大和郡山城跡を歩く <苔むした石垣が残る郡山城跡> ...続きを見る

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2014/09/01 16:53
浄瑠璃寺−3
浄瑠璃寺−3 <日本一の美女、吉祥天立像>   ◇吉祥天立像   ...続きを見る

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2014/08/12 16:33
浄瑠璃寺−2
浄瑠璃寺−2 <晩春の三重塔> ...続きを見る

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2014/08/11 15:54
浄瑠璃寺−1
浄瑠璃寺−1 <信仰の寺、浄瑠璃寺> 浄瑠璃寺は、奈良・興福寺の別所として創建された寺で、池を挟んで東に三重塔(国宝)、西に九体阿弥陀堂(国宝)が配されている。九体の阿弥陀仏を祀るとこらから、九体寺ともいわれる。 ...続きを見る

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2014/08/08 10:06
平城宮跡−2
平城宮跡−2 <大極殿の夕景> ...続きを見る

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2014/07/11 11:27
平城宮跡−1
平城宮跡−1 <朱雀門の朝> ...続きを見る

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2014/07/09 11:07
秋篠寺に行く−2
秋篠寺に行く−2 <歌人・川田順と伎芸天> 歌人・川田順は、この伎芸天の朱髪のミューズ像に陶酔した一人である。芸の女神への傾倒はますます過熱し、とうとう、ここに文学碑を建ててしまった。 ...続きを見る

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2014/06/28 10:25
秋篠寺に行く−1
秋篠寺に行く−1 ◆日本に唯一の伎芸天立像 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2014/06/27 11:53
二上山慕情−3
二上山慕情−3 <大津皇子の人物像> 悲劇の主人公、大津皇子とはどのような人物であったのか想像してみよう。 24歳を一期としてこの世を去った皇子。大津皇子の死は、人々からとても残念がられ大変に惜しまれたという。 大津皇子は、幼少より将来を嘱望されていた。文武にも秀いでていたという。 それを裏付ける資料がある。「懐風藻」という権威ある漢詩の書物に、皇子の漢詩が数編掲載され残っている。いずれも、堂々とした内容の誌であるという。身長も、当時としては立派なものであったようだ。つねに先進的な学問には貪欲であつた。... ...続きを見る

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2014/06/11 15:59
二上山慕情−2
二上山慕情−2 <大津皇子の悲しみ> 大津皇子の生涯は短かくて悲しいものであった。 天武天皇の第3皇子に生まれ、幼少より天賦の才があり容姿端麗で人望があった皇子であると言われている。しかし、それ故にこそ悲劇的な生涯となってしまったのだろう。大津皇子の墓と言われる陵墓が男岳にあり、墓前には葛木二上神社がある。 大津皇子は謀反の罪で捕えられ、幼少時より遊んだ磐余池の堤のほとりで処刑されたのである。それは、逮捕されて二日目の事であった。20歳をいくつも出ていない、将来有望な青年の短くも悲しい死であった。その謀反... ...続きを見る

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2014/06/09 11:25
二上山慕情−1
二上山慕情−1 ◆二上山慕情 ◇二上山落陽 (写真・小川公三) ...続きを見る

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2014/06/03 22:18
奈良公園散歩−6
奈良公園散歩−6 ◆高畑界隈 ◇山吹と白い土塀 ...続きを見る

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2014/05/20 17:09
奈良公園散歩−5
奈良公園散歩−5 ◆春日大社 ◇春日大社 ...続きを見る

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2014/05/04 11:31
奈良公園散歩−4
奈良公園散歩−4 ◆興福寺 ◇興福寺五重塔 ...続きを見る

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2014/04/19 18:47
奈良公園散歩−3
奈良公園散歩−3 ◆天平の華・光明皇后  光明皇后は、古代史の怪物・藤原不比等と橘三千代の間に生誕された、天平の華のような魅力的な女人であり光明子と呼ばれた。  16歳の時、父不比等の策する政略結婚で聖武天皇の妃となり光明皇后となられた。ここから、彼女の波乱に満ちた生涯がはじまる。  公明皇后は、無比の美貌と端麗にして気高いお姿をしていたという。信仰心にも篤く、夫・聖武天皇と共に壮大なる大仏開眼や法華滅罪寺の建立などの国家事業に努められた。特に、法華滅罪寺における癩病患者に対する伝説は、皇后の優しさと徳のあ... ...続きを見る

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2014/04/11 17:37
奈良公園散歩−2
奈良公園散歩−2 <東大寺の歴史と大仏殿> 東大寺は、奈良時代に聖武天皇の勅願により古代日本の国家的事業の一つとして建立された総国分寺である。天平勝宝四年に、金堂に盧舎那仏を安置し盛大な開眼供養が行われた。 しかし、治承四年(1180年)に、清盛の子・平重衡によって興福寺とともに焼かれた。その後、後鳥羽天皇より僧重源に東大寺再建の命が下り、重源は鋭意奮闘すること10数年、ついに焼失前と同じ規模の再建をなしとげた。 しかし、戦国時代の武将・松永久秀により大仏殿を含めて東大寺はまたまた焼かれてしまったのである。... ...続きを見る

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2014/04/09 10:19
奈良公園散歩−1
奈良公園散歩−1 ◆奈良公園は歴史の宝庫である 国立奈良博物館には、世界に誇る古き仏たちがおわす。こころ行くまでお会いした。 飛火野の新緑はすばらしいと言うしかない。鹿達も優しく私を迎えてくれた。のんびりとした時間が過ぎてゆく・・・・・・。 大和路の旅は、本当にこころ楽しいものだ。 ...続きを見る

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2014/04/07 11:54
山辺の道逍遥−11
山辺の道逍遥−11 <山之辺の道を楽しく歩く> この古道は、日本最古の歴史の道である。 この道を歩くと、本当に楽しくすがすがしい気分になる。 この道は一人で歩くべきだ。日ごろの忙しい日常より開放され、心楽しく歩くべきであると思う。 早春の古道も素晴らしいが、秋の古道もまた素晴らしい。無人販売の、大和柿をほうばりながら歩く古道も、これまた楽しいものである。 ...続きを見る

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2014/03/26 14:40
山辺の道逍遥−10
山辺の道逍遥−10 <大神神社(三輪明神)> 大神神社は、数ある神社の中でも最古のもののひとつに数えられている。本殿はなく、三輪山をご神体としている。 ...続きを見る

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2014/03/19 17:02
山辺の道逍遥−9
山辺の道逍遥−9 <昼なお静かな玄賓庵参道> ...続きを見る

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2014/03/18 21:28
山辺の道逍遥−8
山辺の道逍遥−8 <箸墓古墳について> 全長278メートル、古墳時代前期の特徴を持つ前方後円墳。被葬者は、第7代考霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)とされている。一説には、この古墳は邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとも言われている。現在ではこの説が有力になってきた。 伝説では、この姫が夜にしか訪れてこない夫に「昼間にきて、是非お顔をお見せ下さい」と頼んだところ、夫は「私の姿を見て、決して驚ろいてはいけないよ」と念を押し願いを聞き入れた。 翌朝、姫は小さな櫛箱に入っている蛇を見つけ、それ... ...続きを見る

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2014/03/15 18:05
山辺の道逍遥−7
山辺の道逍遥−7 <桧原神社> ...続きを見る

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2014/03/12 19:18
山辺の道逍遥−6
山辺の道逍遥−6 <大美和の丘から見る大和三山> 汗かき息を弾ませて高台に登ると、そこは素晴らしい場所であった。 大和三山が眼前に広がり、まさに指呼の間に望まれた。左から、香具山・畝傍山・耳成山が見える。遠くには、あの悲劇の皇子大津が眠る二上山も望むことができる。 心地よい涼風に汗はすっかり引いてしまう。しばし佇み声も無く見とれてしまった。 ...続きを見る

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2014/03/07 16:23
山辺の道逍遥−5
山辺の道逍遥−5 <神々のおわす山 三輪山> 初瀬の谷の北側に、こんもりと茂ってなだらかな裾をひいた山が三輪山である。大和平野のどこからも見ることができ、大神神社のご神体として古来からまつられている。 三輪山は、大和中の原始的な民間信仰を集めていた山であり、山中には無数の磐座(神の座)がある。現在も信仰心は盛んであるが、古代万葉人がこの山に対して、いかに畏怖と崇拝の念を抱いていた事が想像される。 ...続きを見る

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2014/03/05 15:40
山辺の道逍遥−4
山辺の道逍遥−4 <衾田陵の古道> 継体天皇の皇女、手白香皇女陵があり大和柿の群生地に囲まれていた。 新緑に輝いている。遠景には、大津皇子の魂が眠る二上山を望めるすばらしいところである。 ...続きを見る

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2014/03/05 15:22
山辺の道逍遥−3
山辺の道逍遥−3 <長岳寺> 長岳寺境内は、新緑の若葉がみごとであった。ここは、鎌倉期の建築と仏像彫刻が見事である。特に、水晶を象嵌した仏像はまるで生けるが如く私に迫ってきた。 ...続きを見る

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2014/02/10 17:32
山辺の道逍遥−2
山辺の道逍遥−2 <内山永久寺跡> 内山永久寺は1113年に建立された名刹。盛時には大伽藍を誇っていたが、今ではわずかに池のみ残すだけとなった。歴史の厳しい無常か・・・・・。 池の端に若き芭蕉の句碑が静かに佇む。 ...続きを見る

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2014/02/03 17:37
山辺の道逍遥−1
山辺の道逍遥−1 新緑のこの道を歩くと心の中が洗われる。 小林秀雄の筆になる「山辺の道」の道標が優しく私を迎えてくれた・・・・・・・・。 ...続きを見る

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2014/01/26 10:01
葛城古道を歩く−7
葛城古道を歩く−7 ◇のんびりとした葛城古道 ...続きを見る

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2014/01/09 22:08
葛城古道を歩く−6
葛城古道を歩く−6 <一言主神社と土蜘蛛伝説> 正式には「葛木座一言神社」と言われるが、地元では「一言さん」と呼んで親しんでおり、葛城をめぐる神社の中でも、最も霊験あらたかな神であったと言われている。 雄略天皇が、葛城の山中にて狩りをしている時に一言主の神に出合った。その時に「吾は悪事も一言、善事も一言、言いはなつ神、葛城の一言主の大神ぞ」と名のられ、天皇は大いに恐れ、贈り物をして和睦したという古事がある。 一言主は蜃気楼だとか、山彦を人格化したものとか言われているが、不思議な山の現象は、すべて神の仕業と思わ... ...続きを見る

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2014/01/08 17:05
葛城古道を歩く−5
葛城古道を歩く−5 <葛城高宮と磐之媛> 九品寺と一言主神社の中間あたり、大和三山がよく見える山裾の道に沿って少し開けたところに小さな東屋がある。ここは、歴史を想い静かにパイプを燻らせる良き場所である。 この辺りが「葛城高宮」があつた所らしい。近くを探すと、少し離れた山際に石碑が立っていた。「綏靖天皇葛城高丘宮跡」と刻まれている。 ...続きを見る

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2014/01/03 11:17
葛城古道を歩く−4
葛城古道を歩く−4 <楠木正成について> 正成の出自や誕生についてはよくわかっていないが、幼いころから俊秀の誉れ高く、河内の観心寺や京都で軍学などの学問を学び、志高く高潔の士であった伝えられている。 ...続きを見る

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2014/01/02 09:10
葛城古道を歩く−3
葛城古道を歩く−3 <九品寺と千体仏> 九品寺は行基菩薩の開基である。 平安時代初期に、弘法大師が「戒那千坊」という大寺を創建したと言われている。その跡が残っているが、九品寺もその中の一つである。 ...続きを見る

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2013/12/31 17:12
葛城古道を歩く−2
葛城古道を歩く−2 <葛城山と役小角> 役小角は修験道の創始者で、後世の山伏の草分けであった。生年は不明であるが、8世紀の頃活躍した人物である。 ...続きを見る

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2013/12/29 20:57
葛城古道を歩く−1
葛城古道を歩く−1 <葛城古道周辺は日本の原点だ> 全長14キロに満たないこの古道には、歴史の深さが感じられる。 飛鳥は日本の故郷と言われるが、神武天皇以来、いやそれ以前から開けていた葛城地方こそ大和文化発祥の地だと言えるのではないか。葛城地方は古代豪族の鴨氏、次いで5世紀に天皇家を支えた葛城氏の里である。 ...続きを見る

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2013/12/18 14:45
石仏紀行<当尾の里-6> 完
石仏紀行<当尾の里-6> 完 <当尾の里−6> ◆岩船寺 真言律宗高雄山岩船寺は、創立は天平元年(729年)、聖武天皇の発願で行基により建てられたと言う。 岩船寺と号したのは、空海の姉の子で岩船寺中興の祖智泉大徳の頃、813年のことである。その後、堂塔伽藍が整備され、最盛期には広大な寺域に39の坊舎があった。しかし承久の変(1221年)によって、大半を失った。江戸時代に本堂や本尊の修復をしたが、老朽化が激しく、本堂は昭和63年に再建、三重塔も大修理が平成15年に完成し、極彩色の壮麗な姿を取り戻している。 岩船寺は、関... ...続きを見る

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2013/12/13 15:18
石仏紀行<当尾の里-5>
石仏紀行<当尾の里-5> <当尾の里−5> ◆不動明王立像(岩船寺奥の院) 急峻な坂道を登り、左側の急な細い階段を降りた狭いくぼ地の岸壁におられた。頭頂に蓮華、右手に剣、左手に索を持つ。左眼を細め、右目を開いた薄肉彫りである。 この不動さんは、何か一つだけ願い事をかなえてくれるという。目の病気を治してくれるという信仰もあるらしい。怒っているような、何ともいえないユーモラスな表情をしている。 ...続きを見る

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2013/12/12 10:46
石仏紀行<当尾の里-4>
石仏紀行<当尾の里-4> <当尾の里−4> ◆笑い仏(阿弥陀三尊磨崖仏) 当尾を代表する石仏。伊末行作。阿弥陀三尊の磨崖仏。 当尾の石仏の中でも最も人気がある。阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三像は、みな微笑んでいるように穏やかなお顔をされているので、このように呼ばれている。 地盤の岩が変動で傾いており、その傾き具合が非常に絶妙でちょっとユーモラスな感じがする。この特徴的な笑顔が、「笑い仏」という通称の由来である。 鎌倉時代後半の作という銘があるが・・・・。端正で立体的な造形と、その工芸品的な仕上がりは、もう少... ...続きを見る

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2013/12/08 18:44
石仏紀行<当尾の里-3>
石仏紀行<当尾の里-3> <当尾の里−3> ◆からすの壺・阿弥陀如来坐像 気持ちの良い山道を登って行くと三叉路に出た。そこがからすの壺と言われ、大きな岩が横たわっていた。 そのひとつの岩に、阿弥陀如来坐像と面をかえて地蔵菩薩立像が彫られていた。ひとつの岩に、阿弥陀と地蔵をまつる双仏像は比較的珍しいものである。 ...続きを見る

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2013/12/06 17:04
石仏紀行<当尾の里-2>
石仏紀行<当尾の里-2> <当尾の里−2> ◆藪の中の三尊 道路より一段下った、当に藪の中に三体おられた。ひとつの岩に阿弥陀仏坐像、もう一つに地蔵菩薩と少し小さな観世音菩薩立像がまつられていた。何とも、素朴な仏たちである。 ...続きを見る

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2013/12/01 16:50
石仏紀行<当尾の里-1>
石仏紀行<当尾の里-1> <当尾の里−1> 当尾「とおの」と読む。京都府相楽郡加茂町の浄瑠璃寺や岩船寺のある辺りを言う。 この辺りは花崗岩が豊かにあり、多くが山肌に露出している。歴史的には奈良の都に近い聖域、仏たちの浄土という性格があったそうだ。 「当尾の里」は、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて浄土信仰の霊地として栄え、今も「石仏の里」として多くの人に親しまれている。鎌倉時代から室町時代にかけて、都の名匠による磨崖仏が次々刻まれたようだ。 奈良から笠置、そして伊賀伊勢へ向かう古道近くに浄瑠璃寺や岩船寺、その... ...続きを見る

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2013/11/23 21:54
石仏紀行<滝坂の道-完>
石仏紀行<滝坂の道-完> <滝坂の道−9> ◆柳生の里へ 剣豪の里「柳生」は小さな盆地であり、ひっそりとたたずんだ小さな独立国を呈している。 柳生新陰流の天才剣士として知られる剣豪・柳生十兵衛は、徳川家光の剣術指南役であつたが、後に家光との確執により指南役を返上し、12年ほど諸国を放浪していたという。謎を多く秘めた剣豪である。 柳生家は、十兵衛の外に兵庫助・荒木又右衛門などの剣豪を輩出した。あの宮本武蔵も、若き日に剣術修行のため柳生の里を訪れたと言う。 この若葉に萌える古道は、その柳生へと通じる道であるのだ。 ... ...続きを見る

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2013/11/19 22:27
石仏紀行<滝坂の道-8>
石仏紀行<滝坂の道-8> <滝坂の道−8> ◆地獄谷聖人窟 さらに山道を登っていくと、原生林の岩場の中に聖人屈があった。 地獄谷石窟は凝灰岩だが、彫像は全て線刻である。奥と両側に六体の尊像があった。推定年代は藤原末期とされている。中央の大きな如来は特にすばらしい出来であり、赤く染色されており見事だ。 ここはすごく期待していたが、見事なものだ。 しかし、鉄格子の向こう側の聖人たちは、なかなか人を近づけようとはしておられないなと思った。 聖人窟の前に、崖にせり出して休憩所かあった。小雨の中、しばし休む事にした。こ... ...続きを見る

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2013/11/18 10:59
石仏紀行<滝坂の道-7>
石仏紀行<滝坂の道-7> <滝坂の道−7> ◆心を癒す滝坂の古道 小雨に煙る滝坂の道は静かである。人通りは全くない。 雨にぬれた若葉は、柔らかくて心地よき安らぎを与えてくれる。谷川のせせらぎは、何んともいえぬ優しさだ・・・・。 小鳥が鳴いていた。名前は分からぬが心に染み入る。素晴らしき命の洗濯である事か・・・。 森の木陰に木の椅子があった。ここで休むことにした。パイプを取り出し一服つける。何とも言えぬ心地良さである。 ...続きを見る

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2013/11/15 21:29
石仏紀行<滝坂の道-6>
石仏紀行<滝坂の道-6> <滝坂の道−6> ◆春日山石窟仏・穴仏 鬱蒼とした森の中に見事に苔むした石段があった。雨にぬれているので足元に気をつけ一段ずつ登った。最後に、かなり急な狭い石段があり、その上に覆屋があった。その下の檻のような中に穴仏さんたちはおられた。 凝灰岩層を利用して、東西二つの石窟を彫り込み、内部に如来、菩薩、天部を刻んだ我が国には珍しい石窟仏。明治時代には数十体合った仏様たちだが現在は18体おられる。 12世紀中頃(1155〜1157)今如房と言う人が作ったと言われている。平安末期を代表する石窟... ...続きを見る

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2013/11/14 17:19
石仏紀行<滝坂の道-5>
石仏紀行<滝坂の道-5> <滝坂の道−5> ◆首切り地蔵 朝日観音を過ぎると、道は平坦になり石畳は地道にと変わる。 程なくかなり広い三叉路となる。ここに首切り地蔵があり、荒木又右衛門がためし斬りしたと伝えられている。 この地蔵は、彫刻の手法から鎌倉時代の作と言われ、凝灰岩で首に折れ疵がある。古くから古道の目印とされていた。 左の道を登れば峠の茶屋にたどりつく・・・・。 ...続きを見る

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2013/11/05 22:02
石仏紀行<滝坂の道-4>
石仏紀行<滝坂の道-4> <滝坂の道−4> ◆朝日観音(弥勒磨崖仏) 朝日観音には長文の銘が書かれている。 中尊は弥勒であり、左右に文永2年(1265)の年号と大施主性勘の銘文がある。弥勒の両側は地蔵菩薩であり、右の地蔵のさらに右側には塔が線刻してある。 中尊の像高は2mと大きな磨崖仏である。 ...続きを見る

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2013/10/31 11:00
石仏紀行<滝坂の道-3>
石仏紀行<滝坂の道-3> <滝坂の道−3> ◆夕日観音(阿弥陀磨崖仏) かなり高い位置に見事な来迎印の阿弥陀如来像を発見した。 さて、ここからすぐ近くまで行くのに一苦労だ。この磨崖仏は、夕日をうけると神々しさがさらに増す石仏である。 夕日観音は阿弥陀仏であり鎌倉中期の作。 像高1.6m胸に卍があり来迎印を結んでいる。 ...続きを見る

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2013/10/24 10:59
石仏紀行<滝坂の道-2>
石仏紀行<滝坂の道-2> <滝坂の道−2> ◆寝仏 古道に転がっている比較的大きい石の裏側に大日如来が彫ってある。 よく見たのだがよく分からない。一番不思議なのは、何故このように横になったのか、初めから横向けだったのか?色々と想像力をかき立てられる寝仏である。 ...続きを見る

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2013/10/16 11:29
石仏紀行<滝坂の道-1>
<滝坂の道−1> JR奈良駅に早朝6時30分に着く。小雨が降っていた。 タクシーにて滝坂の道入口にて降りる。早朝の奈良の町は静かだ。滝坂の道は若葉に萌えていた。早まる心を抑えて柳生街道に一歩を記す。早朝の古道には、私一人だ・・・・。 この道は、春日山と高円山の間の谷川沿いに続く古道。江戸時代には、柳生道場を目指して諸国の剣豪たちが往来した道である。本能寺の変の時に堺にいた徳川家康が、光秀の襲撃を避けて、急遽三河へ帰る時にこの道を抜けたと言われる古道でもある。 昔は人通りが多かったようだが... ...続きを見る

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2013/10/10 11:07
室生寺と大宇陀を歩く−完
<宇陀の大蔵寺について> 宇陀のかくれ寺・大蔵寺は、聖徳太子の開基ということだが真偽のほどは不明である。 初瀬街道に車を置き、私は雑木林の細道を約30分も歩いた。全身汗が噴き出してきた。猛暑の中の山歩きである。静かだ、人の気配もしない。私一人である。 この寺には山門もないようだ。鐘楼への急な石段があった。私は、ゆっくりと登って行った。境内は、山寺にしては思いの外に広かった。うっそうとした高野槇に囲まれていた。 大蔵寺は、鎌倉時代の建築であり、柔らかい檜皮葺の屋根が心を和ませてくれた。私は... ...続きを見る

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2013/09/25 17:29
室生寺と大宇陀を歩く−8
<陽炎の丘(かげろいのおか)> 阿騎野は大和高原の南端部に位置する。現在の大宇陀地区である。 街道をはずれ、陽炎の丘を目指すが中々にたどりつけない。近くにNHKの連続ドラマで見た「又兵衛桜」があった。残念ながら花の時季でなかったのでその雄姿は拝めない。 陽炎の丘は小高い丘だ。狭い駐車場に車を止め5分も登ればたどり着いた。たいして広くない丘に、大きな自然石の歌碑があった。 文武天皇が、軽皇子の時代にここに狩猟に来た。その時に、柿本人麻呂が読んだ詩が刻まれていた。   ...続きを見る

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2013/09/19 15:35
室生寺と大宇陀を歩く−7
<磨崖仏は誰が刻んだのか> 室生寺から少し下ると大野寺にいたる。この寺は室生寺の西門とも言われている。木造弥勒菩薩を本尊としているが、宇陀川をはさんで本堂正面の、屏風ヶ浦の大岩壁に線刻された磨崖仏で良く知られている。 清らかな河原をへだてて、切り立った断崖に見事な石仏が刻まれていた。一瞬、うだるような暑さを忘れるほど見事な磨崖仏であった。「阿弥陀来迎図」を彷彿としたものである。 一体、この磨崖仏は誰が刻んだのか。そして、その目的は何だったのか・・・・・。 その人は雅縁僧正だという。興福寺... ...続きを見る

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2013/09/17 10:47
室生寺と大宇陀を歩く−6
<龍穴神社> 室生寺の門前を過ぎ、少し車を走らせると龍穴神社に行きつく。ここ龍穴神社こそ室生寺の前身である。拝殿の後ろに神体山があり、その山中に龍穴の祠がある。 白洲正子は、著書『私の古寺巡礼』の中で「室生寺の真の奥の院は御影堂ではなく、この龍穴の祠にある」と書いている。 ここは、室生寺とは明らかに雰囲気が違う。神社特有の、森厳とした静けさがある。観光客もここまでは余り来ないようだ。狛獅子が私を迎えてくれた。 ...続きを見る

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2013/09/11 19:56
室生寺と大宇陀を歩く−5
<五重塔の再建について> この塔は再建されたものである。 平成10年9月に大型台風がこの地を襲来し、千古の杉の大木が五重塔の廂をつぶしてしまった。テレビは、その無残に崩れた塔の映像を何回も放映したものだ。 しかし、五重塔は2年後に見事に再建された・・・・。 室生寺の五重塔は可憐の一語につきる、それはわずか16メートルにも及ばぬ塔である。 濃緑の杉木立に囲まれた丹塗りの小塔は、息をのむようなあでやかさで、いかにも「女人高野」に相応しいたたずまいである。 「弘法大師一夜作りの塔」というの... ...続きを見る

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2013/09/09 15:19
室生寺と大宇陀を歩く−4
<土門拳と雪の室生寺> 『全山、白皚皚(はくがいがい)たる雪の室生寺が第一等ですなー』 これは、室生寺の住職であった故荒木良仙師が土門の質問に答えて言った言葉である。 土門拳には、雪の室生寺の写真が一枚も無かった。五重塔を撮るんだ、雪の五重塔や金堂・鎧坂をどうしても撮りたいと言って、土門拳は室生寺門前の橋本屋を宿にした。 室生の山は寒いけれど、雪はなかなか降らなかった。3日、5日と日は過ぎていく。それでも、雪の気配はない。川には氷がはっていても、雪は降ってこない・・・・・・。10日、20... ...続きを見る

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2013/09/07 22:12
室生寺と大宇陀を歩く−3
<国宝金堂と日本一の美男子仏> この金堂は、平安時代の建築であり、前方をかこむ礼堂は徳川時代につけられたと言われている。釈迦如来が本尊ではあるが、私は本尊と並んで立つ、平安初期の作と言われる十一面観音に魅力を感じる。ふっくらとしたお顔が美しく、彩色もよく残っており、暗い堂内を明るくしている。 金堂に向かって左手に弥勒堂と呼ばれている建物がある。本尊は言うまでもなく弥勒菩薩である。その右隣りに、檜の一木造りの釈迦坐像があり、中々に親しみのもてる仏像である。 この仏こそ、土門拳が愛してやまない... ...続きを見る

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2013/09/05 21:41
室生寺と大宇陀を歩く−2
<女人高野室生寺と鎧坂> このいわれは、女人禁制の高野山に対して、室生寺は女人を受け入れた寺であるからだ。しかし、この名称は近世になって言われたようである。 ...続きを見る

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2013/09/04 13:37
室生寺と大宇陀を歩く−1
<室生寺について> 室生寺の堂塔は、鬱蒼たる杉木立と羊歯の中に埋もれている。 しかし、それ程の鬱蒼たる杉木立も金堂や五重塔よりはあとのものである。金堂や五重塔は建立されてから千年以上はたっている。杉木立は4-500年、主のような一本杉でも700年は出ないであろう。 土門拳は、この寺の魅力について『室生寺は、寺伝にいう女人高野の名にふさわしく、可愛らしく華やかな寺である。伽藍も仏像も神秘的で、しかもあやしい色気がある。深山の杉木立の中に咲く山桜にもたとえられようか。室生寺は春夏秋冬それぞれに... ...続きを見る

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2013/08/28 16:56
遥かなる明日香−完
<飛鳥稲淵宮殿跡> 大化改新の主人公、あの中大兄皇子がひと時宮殿を造ったと言われている。 その場所が、ここ飛鳥稲淵宮殿跡である。 爽やかな、明日香風が吹いていた。 ススキの若い穂が静かに揺れていた。なんと、のどかな風景であることか・・・・・。 ...続きを見る

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2013/08/15 14:19
遥かなる明日香−9
<弓削道鏡と岡寺> この寺は、天智天皇の勅願により義淵僧正が創建した。 後に、空海が如意輪観音坐像を安置してから、本尊である観音信仰が盛んになった。 岡寺は、草壁皇子の岡宮の一部だったころからこの名称となったが、正式には竜蓋寺という。 本尊の如意輪観音は、塑像としては日本最大であり5メートルもの巨大である。あの、悪名高き怪僧・弓削道鏡も若き日ここで修行をしたといわれている。明日香の東山中腹にある修行道場である。 ...続きを見る

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2013/08/11 14:25
遥かなる明日香−8
<白鳳期の代表作・山田寺仏頭> 山田寺金堂の本尊、金堂の床下から熱火により焼けただれた頭部のみが発見された。悲しい歴史の事実である。 この仏頭は、大津皇子に良く似ていると言われる。 ...続きを見る

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2013/08/07 11:08
遥かなる明日香−7
<山田寺の悲しき歴史> この寺の歴史には心悲しいものがある。 46年の歳月をかけて完成した、荘厳目を奪うがごとき大伽藍も今はさびれて静かな廃寺となっている。歴史の無常か・・・。 ...続きを見る

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2013/07/30 16:58
遥かなる明日香−6
<石舞台の幻想> 石舞台の被葬者は本当に曽我馬子であるのか。未だ結論は出てはいない歴史の謎である。 曽我馬子は、この石舞台から歩いて4、5分の飛鳥川と冬野川が合流するあたり、現在の島の庄に豪壮な邸宅を構えていたと言われている。 何故こんな間近に壮大な陵墓を造ったのであろうか。また、何が目的であったのか。権力の誇示か、それとも言い知れぬ恐れか。 私は、石舞台は馬子の墓では無いような気がする。それでは、一体誰の墓なのか。歴史の謎は深まるばかりである。 ...続きを見る

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2013/07/22 16:33
遥かなる明日香−5
<曾我入鹿の首塚> この首塚の主は、大化の改新にて中大兄皇子により誅殺された。 しかし、入鹿は本当に悪人であったか。確かに聖徳太子の弟・山背大兄王を死に追い詰め、一族を滅ぼした歴史的事実はある。 だが、しかしである。入鹿は、気宇壮大であり、中々の人格者でもあったと書かれたものもある。 私に言わしめれば、祖父・馬子がいけなかったのである。父の蝦夷も人物としては小人であったという。それに、生まれた時代が少し早かったのではないか・・・・。悲しきは、入鹿本人であろう。 ...続きを見る

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2013/07/13 19:01
遥かなる明日香−4
<曽我馬子の野望> 飛鳥大仏は鞍部首止利仏師作と言われるが、ほろびゆく飛鳥の象徴でもある。 戦乱と火災、落雷などにより決定的に破壊されてしまった。補修も心無きものであり、ほとんど原型をとどめていない。また、人間の欲望のために本尊後背の銅まで盗み取られたのである。まことに古代無残である。 しかし、お顔の一部、杏仁形の眼のあたりと右手の中央三指のみが原形を残していると推定される。しかし、重文に指定されてはいるが国宝では無い。 飛鳥大仏の面差しは、どことなく不気味で恐ろしい鋭さをもっている。何... ...続きを見る

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2013/07/08 10:24
遥かなる明日香−3
<飛鳥川> 飛鳥川は、今日も万葉の里に古代のままに生きており、昼夜をわかたず流れている。 しかし、こんなに小さくてひとまたぎにすぎない何でもない小川が、飛鳥を訪れる人達に心の底までしみいるのは何故であろうか。 飛鳥川は、稲淵川に発し明日香村を流れ、磯城の大和川に注ぐ全長32キロの川である。 この川は、神のおわす甘樫の丘を神域として帯となり、また板葺宮の位置をきめて昼夜を分かたず流れてきた。そして、この川の命を『万葉集』の中に残しながら、明日香古京をしのぶ数ある歌の歌枕となっている。 飛... ...続きを見る

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2013/07/05 16:11
遥かなる明日香−2
<甘樫の丘で想う> 甘樫の丘は、明日香の田園の中にある標高148メートルの丘である。頂上は小さな台地になっており、明日香古京や大和三山が展望できるすばらしい場所である。 古代は神の住まい、今は物見の丘となっているが、大化改新前夜、曽我蝦夷・入鹿の父子がこの丘の上に邸宅を構えたと言われている。ここは、権力を誇示する虚飾の丘でもあったのだ。 しかし、一人の名もない鍼灸師が、飛鳥保存にかけたほとばしる熱情により一国の総理をこの丘に立たせたのである。それに続き、1200年の時を経て天皇までもこの丘... ...続きを見る

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2013/06/30 15:03
遥かなる明日香−1
気の遠くなるような日本のふるさと飛鳥。 ここは、かって五世紀から七世紀にかけて帰化人の来住、曽我氏の野心と権力扶植、天皇の宮殿造営、日本最古の寺院建立、万葉人の愛と死の絶唱嗚咽の舞台であった。 そして今は、日本の原風景をかすかに残し、焼けただれた仏像や廃寺の礎石、石舞台をはじめ謎の石造物などが古代の忘れもののようにかすかに残されている。 しかしここは、人々の生活の場であるという現実も決して忘れてはいけない。 明日香は日本人の心の故郷である。ここを訪れると何かしら安心する。曽我と物部の仏教... ...続きを見る

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2013/06/25 16:34
西ノ京散策−完
<垂仁天皇陵への道> 唐招提寺南大門から西に向かい、線路を渡り右手の線路伝いの道を歩く。 私はこの道を歩くのが好きであり、いつも歩くようにしている。高台の、田園地帯を抜ける爽快な古道である。 垂仁天皇陵へは、小さな石の道標「歴史の道」が目印である。 全長227メートルを誇る堂々たる前方後円墳である。満々と水をたたえた周濠には、田島守の墓と伝えられる小島が浮いていた。 尼ヶ辻駅まで、わずか15分程であるが心が爽快になる道である・・・・・。 ...続きを見る

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2013/06/20 21:54
西ノ京散策−5
<鑑真和上> 鑑真和上は、西ノ京を代表する寺、唐招提寺開基の高僧である。 和上のお姿は、この横からのお顔が何とも言えぬ精神的なものを私に感じさせる。知的で憂いと優しさを、和上の人間性を感じる。 ...続きを見る

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2013/06/18 11:14
西ノ京散策−4
<亀井勝一郎と唐招提寺の魅力> 亀井勝一郎は、著書「大和古寺風物詩」の中で 『・・・・・唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。伽藍配置のかもし出す整然たる調和の美しさであって、私はそれを見たいためにやってくるのだ。奈良朝の建築の精華はここにほぼ完璧な姿で残っていると言ってもよかろう。 ギリシャの神殿を彷彿せしむるような円柱の立ち並んだ金堂、平城京の朝集殿と伝えられる講堂、及びその西側に細長く建っている舎利殿、小さく可憐な二階づくりの鼓楼。この四つの伽藍が秋の光を一杯に受けて... ...続きを見る

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2013/06/15 16:51
西ノ京散策−3
<国宝・薬師寺東塔> 東塔はこの寺のシンポルであり、天平時代の何とも言えぬ流麗な姿を現している。 近くの大池(勝間田池)より見る、この二塔の遠景はまさに浄土の世界を彷彿とさせる。私はこの場所より見る薬師寺が好きである。いつ見ても素晴らしい塔であることか。 この塔は、伽藍の中で唯一残った天平の建造物であると言われている。 上部にある「水煙」は有名である。アメリカの美術史家フェノロサは「凍れる音楽」と評した。 私は、最後の宮大工といわれた西岡常一氏が再健した西塔に腰掛けて、いつまでも東塔を... ...続きを見る

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2013/06/10 15:38
西ノ京散策−2
<聖観音と和辻哲郎> 和辻哲郎は、30歳の時に出版した「古寺巡礼」の初版本に、薬師寺東院堂の聖観音について感動的な文章を書いている。少し長いが引用してみよう。 『東院堂の北側の高い縁側で靴をぬいで、ガランとした薄暗い堂の埃だらけの床の上を、足つま立てて歩きながら、いよいよあの大きな厨子の前に立った。小僧が静かに扉を開けてくれる。見よ、見よ、そこには観音が立っている。 この瞬間の印象を語ることは僕には不可能である。全身を走る身震い。心臓の異様な動悸。自分の息の出入りがひどく不自然に感ぜられる... ...続きを見る

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2013/06/06 21:45
西ノ京散策−1
<活き活きとした薬師寺> 薬師寺はいつ訪れても活気のある寺だ。大和で一番に生き生きとした寺であり、今日も活き活きと輝いていた。修学旅行生も多く来ていた。 この寺は、天武天皇が皇后の病気平癒の爲に発願された寺であるという。 金堂の本尊、国宝薬師三尊像や東院堂の観音菩薩立像(聖観音)などは大変に素晴らしい。正しく天平期の名品である。 私は、聖観音の引き締まったすらりとした、一見女性を感じる姿が好きである。かって岡倉天心は、弟子達(横山大観等の画学生)を必ずここに連れてきたという。彼らが、その... ...続きを見る

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2013/06/03 16:19
斑鳩の古道−完
<正岡子規と法隆寺> 正岡子規は35歳で亡くなっている。短い生涯であったが、俳句革新という素晴らしい仕事を残した一生であった。 その子規も、奈良に遊んだことがある。そして、有名な一句を残している。 ...続きを見る

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2013/05/29 11:38
斑鳩の古道−6
<梅原猛の法隆寺論> 法隆寺は不思議な寺である。 和辻哲郎は、著書・古寺巡礼の中で『・・・南大門に立つと、もう古寺の気分が全心を侵してしまう。・・・そろそろ陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持になる。』と書いている。 ...続きを見る

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2013/05/28 10:27
斑鳩の古道−5
<百済観音と大寶蔵院> 私が、はじめて百済観音にお会いしたのは講堂の片隅であったと記憶している。 現在は、大寶蔵院が完成し百済観音堂が独立して作られている。堂内は照明を落とし、静けさの中に落ち着いた雰囲気をかもしだしている。その中に佇立し、百済観音は千年の微笑をたたえて瞑想しておられる。 ...続きを見る

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2013/05/27 15:18
斑鳩の古道−4
<秘仏・救世観音の不気味さ> 救世観音は聖徳太子等身の像である。製作年代は未定であるが、はたして、日本人の手になる仏像であるのか・・・・・・。 ...続きを見る

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2013/05/25 16:58
斑鳩の古道−3
<虚子の斑鳩物語と法起寺> 法起寺の三重塔は、蒼然たる趣を放っている。この塔は、日本一古い塔であると言われており、柱や軒はしは古代のままであり、風格をかもしだしている。 ...続きを見る

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2013/05/24 13:41
斑鳩の古道−2
<斑鳩の里と怨念の歴史> 斑鳩の里は、聖徳太子が仏教を学び広めた由緒ある地である。 矢田丘陵の緑を背にする、法隆寺・法輪寺・法起寺の塔は「斑鳩三塔」と呼ばれ、程よく調和した造形美と歴史の深さは、斑鳩の風景に彩りを添える。 春は菜の花・蓮華・タンポポ、秋にはコスモス・彼岸花・・、斑鳩の里には素朴な花が良く似会う。秋には、百人一首で知られる「竜田の紅葉」がある。「いかるが」とは、黒と灰色のまだら模様をした鳥「イカル」が多く棲むところからの名と言われている。 ...続きを見る

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2013/05/22 09:11
斑鳩の古道−1
私の、斑鳩の古道歩きは法起寺から始める。いきなり法隆寺には行かない。 斑鳩の二塔をゆっくりと歩き、心の準備をしてからおもむろに法隆寺へと向かうのである。 法隆寺は、謎の多い分らない寺であるから、それなりの覚悟が必要なのだ・・・・。 ...続きを見る

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2013/05/21 15:32
大和三山
のどかに広がる大和平野は本当に素晴らしい・・・・・。 中でも大和三山は、万葉人の生活に深く結びつく山でもある。 大和三山の頂上を結んでできる三角形の内側を中心に、日本で最初にして最大規模といわれる藤原京に都が遷ったのは持統8年(694)である。それから、平城京遷都までの16年間と短いのではあるが日本の首都となり、おおらかな白鳳文化が花開いた。 香具山は標高152メートル。「天香具山」と「天」の尊称を付けているのは、古来より三山の中で最も神聖視されていたからだ。万葉集にある、舒明天皇や持統天... ...続きを見る

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2013/05/13 15:40
旧白州邸「武相荘」と里山を歩く
今年のゴールデンウィークは、五月らしい爽やかな日が続いた。 意を決し、かねてから一度は訪れてみたいと思っていた旧白州邸「武相荘」を訪ねてみた。 ここ町田市鶴川周辺は、程よい里山や小ぶりの寺院が多く散在し、田舎らしい雰囲気が残っておりゆっくりと散策するのには中々良いところである。 ...続きを見る

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2013/05/11 22:06

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馬場のはりブログ<院長独白> 旅と歴史のテーマ/BIGLOBEウェブリブログ
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